☆言葉と状態を一致させて生きること☆

自分がありのままの子どものようになって来て分かったことがある

喜びに言葉はいらないこと

ある時、ダーリンにくつしたをはかせてもらいたくなって

くつしたを持って行ってはかせてもらった

そうしたらはかせてもらったことに満足して

出た言葉は「くつしたはかせてもらった」で

ありがとうとか相手に対して感謝する言葉じゃなかった

しばらくしてそのことを思い出して

「くつしたはかせてもらったの」

そういいながら、喜びが込み上げてきました(o^ ^o)

ダーリンは

「そうだね。良かったねー。」とニコニコしてました。

なんていうか、カラダ全体でとにかく嬉しいんです。

その時、ふと思ったのが

子どももきっとこういう状態で全身で喜びを表現していること

まだ言語をもたない子どもはきっと感情や感覚を

全身で感じて表現しています(○´∀`○)ノ

どんどん自分自身の感覚が蘇って来て

だいぶ子どものような状態になって分かりましたけど

とにかく全身がセンサーのような状態で

カラダに起こることすべてが楽しくて、すべてが喜びです

食べ物を食べたら、その感触が口いっぱいに広がって

その感覚が楽しくて、味は二の次ですね(o^ ^o)

人と会っても、「こんにちは」より先に

出会えて嬉しいという感情が湧きあがって来る

とにかく言葉よりも先に感情や感覚が起こります

別にいちいちそれを言語に置き換えなくても

ただ瞬間、瞬間で起こって来る感情や感覚

すべてが喜びそのもので すべてが輝き

生き生きとしていて、ただ在るだけで言葉を持ちませんでした。

なので一人でいる時は感情や感覚などの状態を

言葉に変換せずにただ在るだけでいることもあります

そうはいってもメッセンジャーが楽しいので

その状態を言語に変換して文章を起こしたりもしてます

たぶん、子どものはすべてが喜びである感覚の世界を

言語を持つことで徐々に捨てて行くんだと思います

幼いうちの自分殺人事件で神であり、いのちそのものである

自らを封じる体験をするために

主に親や家族との関わりを通して、自分を封じます

親自身も感覚を封じているために

子どもが喜びそのものであるという状態に気が付かずに

「こんにちは」っていいなさい

「ありがとう」っていいなさい

子どもはただ出会えた喜び

何かをしてくれた喜びを

カラダいっぱいに状態で示しているのに

親にそれが伝わらず、親の世間体などのために挨拶を強要され

怯えながら、挨拶を覚えて行き、

感情の伴わない感謝の想いや

ただ形だけの挨拶を覚えて行くんだと思います

口の中いっぱいに感触を楽しんで食べていても

お行儀が悪いと怒られて、それを封じられてしまい

どんどん楽しみを奪われて

ありのままの自分でいれないと判断して自分を失う体験をします

ただこれをお話しするとよく親御さんが

私がいけないんだという判断をされますがそうではなくて

すべては相互関係の元に物事はおこります

お腹の中にいる胎児の時点からずっとそうですが

その子が、そうして自らを封じる経験をしたいから

それをしてくれる親の元に産まれてきて

それが起こってきています

封じたから悪い、悪くないじゃなくて

そういうしくみの元に自ら望んで産まれて来ていますし

それが連鎖的に代々起こっているので、誰も悪くありません

人はいのちそのものである自分を

一度、失うことで

また再び取り戻す喜びを味わうことができる

だから失うことも、それを取り戻すことも

大いなるいのちの視点からみれば

すべてが喜びそのものです(o^ ^o)

さらにいえば、親御さんが何も知らずに子どものためを思って

子どもが恥をかかないようにとか

良かれと思ってやってきた状態から

ここでこの記事を読んで読んで、違う視点を得たことも

何かお子さんの導きである可能性もありますし

親御さんにもっと楽に生きて欲しいというメッセージである

可能性もあります

もちろんそれがすべてではなく

いのちは色んな経験をし、自らの多様性を知ることを喜びとするので

封じたままでいることも、これを知ったまま失うことも

それもまた経験であり

すべては喜びそのものです

続く

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