おなかの深い深い奥から
愛している 愛していると繰り返し声が聞こえる
その声がいうのです
人は産まれる時に、
わたしはこれを生きると決めて
ひとそれぞれ、強い想いを持って生まれて来ており
その想いこそ、その人のいのちそのものだと
この想いとのシンクロ率の高さこそが
いのちを生きれている強さでもあり
より深くより強く
この想いと一体となり生きることができればできるほど
人は神になり、いのちそのもので生きる充実感に満たされます
表現こそできませんが
3歳頃まではその想いをそれぞれ覚えています
ずっと共にあるカラダはその想いをよく知っていますし
その想いでいるカラダの状態も覚えています
なのでカラダの感覚に深く当てることができれば
いのちを生きれていることにもなります
ですがカラダにはその記憶だけでなくて
これまで生きてきた経験をすべて覚えており
色んな記憶の深い深い場所に
いのちを生きる想いは眠っています
カラダと対話しても
でてくる想いはこれまで生きてきた色んな想いであることが
ほとんどで、これまで生きてきたすべての自分を受け容れ続け
感覚の深みに降り続けた先に、その想いが待っています
この深い深い想いを生きれなかった苦しみが
トラウマのような深い深い傷となり残っているために
人はこの深い想いを生きることを無意識に恐れ、遠ざけます
ですがこれを生きるために生まれてきた
その強い想いが根底にあるがために
その想いを生きさせようとすべく
たくさんの現実が、いまの己を教えてくれます
本当にあなたが大切なものはなんですか
あなたが何よりも譲れないほどに生きたいものはなんですかと
繰り返し、繰り返し
この世という世界を通して問い続けてきます
この想いが生きれないということは
この世において死んでいるのも同然なので
いのちを生きて いのちを生きてと
繰り返し、この想いは問いかけてきます
忘れないでください
この世に現れるすべては
己のいのちを生きんがために
さまざまな己を見せてくれているということを
この想いを生きるということは
当たり前に愛そのものの優しい状態であり
その状態であれば、
当たり前に人と人とが助け合い生き合える
そんな世界です
ですが、いのちを生きることを勘違いしている人が
この世界のほぼ100%と言っても過言でないほど
いのちを生きれている人は皆無に等しいです
自分のいのちの想いとはかけ離れたものを
自分のいのちだと勘違いして
握りしめている人があまりにも多すぎる
たとえすべての人がいのちを生きれていないとしても
それでも、その人のいのちはその人を深く深く愛している
この状態を生きることとは
自分勝手なわがまま三昧を生きることとはまた違い
あるがままで、自らの役割を自然と遂行し
すべての役に立つ
何かをしようとリキむこともしなくても
頑張ることもしなくても
自らの中心から湧き出てくる想いで
自らも、世界も、すべてが動かされる
そこでは淋しさや悲しみなど
色んな感情をなかったフリをする必要もなく
あるがままの自分をすべて認めることができる
人と人とが助け合うといっても
それは依存でも一方的な押しつけでもなく
それぞれの与えられた役割を自然と深く理解し
必要であれば、自然と手がでる
必要がなければ、相手の役割を信頼して
まかせられることができる
それは見守ることでも待つことでもない
人は当たり前に、
自らの役割を遂行するだけのチカラを持っている
わたしがそうであるように
すべての人もそうである
必要なことは起こり、必要でないことは起こらない
そのことを当たり前に信頼し合うことができるから
その世界には信頼しているという実感を持つ必要すらない
当たり前にわたしとあなたが存在していること
そしてすべてが愛そのものであること
いのちを生きる世界は、そのことしかない世界
わたしが持ってきた
いのちの想いは
人が好きで好きでたまらないという想い
そして、すべての人と幸せでありたいということです
人が本当の意味で幸せであるということは
いのちそのものを生きれている状態です
そしてすべての人がいのちを生きられることを
知っている自分でいること
わたしはわたしのその想いを大切に大切に
生きていく それがわたしのいのちです
どうかいのちを生きてください
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