なんか、もう本当にコントロールっていらないんだなって
つくづく思うのよ
内側を向いて
流れに乗って生きていると
必要なことって、まるで未来がやってくるように
自然と起こるって表現をするけど
あれこれ、一生懸命考えても
すべては決まっているんだなーとしか思えないような感じで
日付も、時間も自然と必要な時を選んでいる
ワークなんかでもそうで、すぐに満員になる時もあれば
不自然なぐらい、人が埋まらない時とかあるけど
エネルギーのバイオリズムみたいなのがあるみたいで
ある時に、一気に申し込みが来りとかするし
まるで最後のひとりを待っているかのように
一枠だけ埋まらない時もあるし
(ちなみに、だいたいいつも、最後に申し込む人って同じ人なんだけど
まるで、その人のためにたまのをのワークがあるのかってぐらい
その人のために、申し込みが左右される人がひとりいる)
普段、滅多にでないキャンセルがでた直後に
それが必要そうな人から連絡が来たりとか
そんなことがしょっちゅうあって
なんか、まるで最初から来る人って決まっているんだなー
もっといえば、それをやることすら
決める前から決まっているから
あれこれ考えても仕方ないから
とりあえずやって、結果をみて判断しようって思うようになった
なんか、この前の日曜日に
おうちお茶会をしたんだけど
カレンダーで日付見てもピンと来る日がなくて
それでも、お茶会やりたくてやったんだけど
たぶん日食と春分の日の間って
エネルギーの変動すごそうだから、
来れる人限られるかもなーって思ってたら
ドタキャンもあって、参加者さん子ども入れて3人だったの
でもねー、ダーリンの解放を付き合って
結構、疲れてたから
少人数で本当に良かったって思ったのよ
人数多いのも楽しいけど
来ている人のエネルギーを無意識に感じちゃうから
疲れている時とかは、負担が大きくて無理なんだけど
無理しなくても、ちょうど良い感じになっているんだなーって
この時も思ったよ
(ちなみにお金は、自由料金制なので、
人数多いときよりも、少ない方が金額が
多いこともあるので、気にしてない)
前も書いたけど、このタイミングが一番合うのが
ダーリンと一緒にいる時なのね
メール打とうとしたら、向こうから来たり
一緒に買い物にいって別行動してても
同じタイミングで買い物を済ませて
互いがいるであろう売り場に向かっている所であうし
スーパー銭湯でも、出てきた所で
ばったり会ったこと何度もある
別に相手に合わせようとしているわけじゃないんだけど
いつもそんな感じだから
無理して、合わせようとかコントロールっていらないんだなって思う
そうはいってもね
わたしも、ダーリンをなんとかしようとしてしまうことあるけど
そういう時に、ふと気付いて
必要なことだけ伝えて
あとは相手のことを信じてみようと思うの
相手をどうにかコントロールしようとすると
どうしても、わたしにも、相手にもチカラが入って緊張するから
それをやめると、互いにすごく楽だよ
必要なのって、本当に自分を含めたすべての人の
幸せを願う気持ちだけなんだと思うの
それに、自分に起こることすべてが
自分を教えてくれているって思うから
そのままの自分を見てみたいと思うし
相手のことも、コントロールせずにありのままみたいのね
だから、わたしはコントロールすることを手放したかったの
あー、そうだ。これ区別がつき辛いだろうから
一応、言っておくと
コントロール癖が強い人は
自分の都合の良いように現実を動かしてしまったり
相手を動かしてしまったりとか
そういうコントロールを無意識下でしてしまう人もいるのね
それが、悪いとはいわないし
それぞれ必要な時期があるんだと思うの
ただ、わたしが言っていることとは
違うものだよって伝えておきたいのね
そういう人でも一見、同じように必要なことが
起こっているようにみえるから区別がつきづらいけど
そういう人はどこかで緊張していたり
話す内容にチカラが妙に入ってたりしたり
自分をよく見せようとする傾向が強いから
出来事をむりやりポジティブ変換してたりとか
どこかで不自然な行動をしていると思うよ
そういう所で見極めるしかないよね
それでね。コントロールをしないようになりたいって
思う人も多いだろうけど、前も言ったように
コントロールを長年してきた人は
それを改善するためのコントロールがいるのよ
たとえば、ビワさんが光のほうだけみるみたいな
表現をすることがあってね
わたしはあんまりその表現が好きじゃないの
だって光も闇もなくてすべてが自分だから
どちらも見たいし、知りたいの
だって自分をこよなく愛し
ているから
どんな自分でも知りたいの
だけどね、特にゼロよりも上の世代の人にとっては
その表現が必要なんだろうなって思うの
どうしても目に見えるもの、形に囚われて来た世代だから
そういうものに囚われた、
欲望に満ちた生き方を闇ととらえるならば
見えない感覚的な生き方を光と表現して
光を見るっていったほうが分かり易いのかもって思うし
長年のコントロールを少しずつでも解くのに
頭が堅い人たちは、応用が効かないことが多いから
光を見るっていう、一つの指標が分かり易いのかもって思う
だけどね、インディゴから下はまた違ってね
例えば、ずっとネガティブだった人は、
光ばかりみる時期があったほうがバランスがとれると思うの
だけど、その時期が過ぎたら
インディゴ系の人は真実を知りたい性質が強いから
光だけに囚われずに、両方知りたいって思うと思うの
コントロールを解いている最中は
コントロールしている自分を
コントロールしないようにしているけど
これはコントロールなの?とか
訳が分からなくなることもあるだろうけど
考え過ぎず、リキみ過ぎずに、自分を感じてあげてね
コントロールから脱却した世界って
相手をどうにかしようとか、物事をどうにかしようとするような
リキんだ状態じゃなくて
脱力して楽に生きているような状態でないと起こらないの
だから、世代によっても、時期によっても
それぞれ違うから、どれが正解なんて決めつけずに
徐々に歩んで行ってあげて
ちなみに正解があるならば
それも感覚なのね
やわらかく生きれるようになってくると
自分の中で揺るぎない、これだって感覚がつかめるようになるよ
前に、誰かが感覚を解くとそれが波及して
広がるって伝えたけど
ちなみに、わたしがこのコントロールする感覚を解いたから
それがこれから広がると思うの
だから、そういった感覚も解き易くなると思うよ
それでね、コントロールしないことが恐いのであれば
それがどうしてか、どんな風に恐いのか
自分のことを感じてあげてね
申し込み不要のおとぴのおはなし会 in 東京
3月27日(日)、4月29日(金、祝)予定
ちなみに4月の告知はまだしてませんが、3月と同じ場所の予定です
☆3月のおとぴのおうちお茶会&おとぴのおはなし会in東京のお知らせ☆
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